グッバイ、イノセンス

先日のFoalsのライブ前に渋谷シネセゾンで観た『パラノイドパーク』の感想を。

エレファント』ではパルムドールを受賞したりと、成熟度を増すガス・ヴァン・サント監督の最新作。当然ファンには、美味しいカツオの美味しいとこだけ摂るめんつゆの如く、美しい少年の最も美しい時期を掬い取るのが変態的に巧い監督としての認知度も高い…はず。今回はガスの瑞々しさを失うこと無い感性から生まれた作品。

社会的に恵まれずヒエラルキーの底辺に位置づく少年たちが集っては無心にスケボーに打ち込む公園「パラノイドパーク」、主人公のアレックスも友人に連れられてそこに行くようになる。映画は、彼の日常が一変するある「出来事」から彼が、それに向き合っていく流れを時間軸をバラバラにして描かれる。具体的に何がどのようにして起き、アレックスに衝撃を与え、単調な人生を大きく揺さぶったかは、観客には漠然と分かるものの、ラストまで完全に分からないのがこの映画の重要な点だろう。…なのに、宣伝やアホなレビュアーのせいで、その重要な点がダダ漏なのが残念だった。というか知らずにいた方が、良かったのに…。

スケボーの誰の視点でもないローアングルから撮影された流れるようなスローモーションの映像は美しく幻想的。8mm?16mm?詳しくは分からないけれど、粗いザラついた質感により、クリアな現実から切り離され、それだけでも映像作品として成り立つような独立した芸術性の高さを感じる。さらに個人的に大好きなクリストファー・ドイルのカメラワークは、アレックスの心象を見事に映し出し、グッと彼の心に侵入する。観客は拒んでも彼とシンクロを余儀なくされる。特に「事件」後の、シャワーのシーンの被写体との距離感は痛々しいまでにアレックスの心を表していた。

サントは「エレファント」でもシャワーシーンを設けて、事件に向けて動き出す直前の主人公たちを表現した。あのシーンに不必要性を感じる人は、意図を感じ取るだけの感性が欠けているだけで、こういうシーンには決意やリセット、スタート、清めなどの儀式めいた行為を表すことが多い。今作のそれは、彼が激しい動揺から目覚め、冷静さを取り戻しもがきながら罪の自覚に向かう瞬間ととれる。

パラノイドパークの存在はどうだろう。興味が無いけど付き合ってるうざいガールフレンドや家庭の問題などの現実から逃避する存在のようにパラノイドパークはある。でも、アレックスはスケボーに自信がないため、滑ることは無くクールに滑る連中を眺めている。さらに、逃避としてのパラノイドパークでありながら、彼は一度も日常の呪縛から逃れたことはないんじゃないだろうか。その証拠に彼はパラノイドパークにいても『家族のこと考えてしまう』。体は物理的に離れていても、心はむしろ向き合っている。

家族と言いながら、家族サイドから彼を描くことは無い。あくまでも彼の主観に沿った形でしか描かれないため、母親は最後まで背中やピントが合わない状態でしか移らない。一方、彼が全てを打ち明けようとする父親も、アレックスの心に同調してレンズのピントが合うようだった。この辺の気配りというか映画の綿密さはさすが。唯一客観的にアレックスを見守る友人メイシーの存在は重要だろう。ただし、終盤までアレックスの目に彼女は重要な対象としては映らない。メイシーの隣にいる美少女を眺めてしまったりする。あくまでも友人の一人だ。しかし彼女がアレックスの心の重荷を取ってくれる。

バラバラにされた時間軸は、映画を脳内で繋げていく観客と、心を整理していくアレックスの距離をより一層縮める。ただ、ラスト、彼の心がどのように収束されていったかが掴みにくい。観客に委ねすぎたのか、あえて描かなかったのか、意図的とも思われるが、もうすこし出口が欲しかった。ただ、ラスト流れるElliott Smithの『Angeles』に救われる。彼は逃れられないのではない、逃げないのだ。

余談ですけど。
終わりの方で出てきた弟の会話、というか弟の一方的なおしゃべりは、映画『ナポレオン・ダイナマイト』のリップクリームを学校に持って来てくれよと電話越しにせがむナポレオンの会話シーンを真似しているわけで、トンチンカンな字幕になっていたのは、字幕作成者が分からなかったからか、どうせ観客も分からないだろうと誤魔化したのかは分からないけど、気になった。「ナポレオン閣下」って、おい。その部分を含めても、この映画ではスクリプトの存在を忘れさせるほど、リアルな会話が随所にあり、映像も含めて適材適所にあるからこその「リアル」だったんだろう。ここも監督の「腕」ですね。

♪今聴いている曲♪
Elliott SmithAngeles
淋しく響く繊細なギターと、呟くような脆く美しいElliottの声。監督の選曲も見事。

Either / Or

Either / Or