『Dr.パルナサスの鏡』

テリー・ギリアムのことは好きだけど、見終わった後のなんだこの腑に落ちない感じは。ヒース・レジャーを失ったというだけで片付けれられる、というか目を瞑れる程度のものではない。それぞれの要素が大人しく窮屈に収まってしまったがために、かえって居場所を失っているように思える。

ガタガタと今にも崩れそうな移動式馬車で、ロンドンの各地を巡業する旅芸人の一座。パルナサス博士とその娘のヴァレンティナ、そして曲芸師のアントン、こびとのパーシーは、パルナサス博士が見せるイマジナリウム―人間の心にある欲望を映した幻想世界―を売りとしている。時代遅れのセットで興行もパッとしないが、パルナサス博士は悪魔との賭けに勝たなければならない。そんな恐ろしい賭けの代償が差し迫ったある日、一座は首を吊った男を助ける。一座に加わったその男は記憶がないものの、ペテン師ばりの口八丁で次々と客を引き寄せ・・・というわけ。

「バロン」や「モンティ・パイソン」の頃から変わらない美しくもケバケバしいギリアム調の演出は感じられるものの、こんなにも撮影技法が進歩し、CGのクォリティが上がったにもかかわらず、なぜこんなに幻視世界がぎこちなく安っぽいものになってしまったのか。ギリアムは頑固なんだろうな。意地っ張りなのかな。人の心、欲望を映し出すことは極めて難しいぶん期待が大きかったのに、うまく扱えなかった結果を見せられただけ。冒頭で一番最初に鏡の向こう側に入ってしまう青年が水溜りに顔を付けたことで別人に変化してしまうシーンは、ヒースの顔がジュード・ロウジョニー・デップコリン・ファレル*1にコロコロと変わってしまうことを言い訳する付けたしかもしれないけれど、間違った演出ではなかったと思う。というか、それ自体はあまり問題にならない。ジョニー・デップが出てきてガッカリする映画はあまりないと思うけど。

悪魔との賭け、鏡、恋に伴う犠牲、永遠の命(死生観)、人生の選択、語り継がれる物語(そもそもパルナサスが19世紀のフランス詩人の一派である高踏派だという意味もあるのだから、もっとこういう側面が膨らむのかと思った)・・・こんなにも哲学的で魅力的なキーワードをばら撒きながら、最終的にどれ一つも回収できずに、モンティ・パイソンを髣髴させるお遊びも失笑気味で空回りして、ぴんと来ないまま終わってしまった。トニーの黒い正体に関しても、幻視世界でうやむやになって消えた。

ただしチャチな幻視世界ではなく、現実世界の馬車を中心としたディティールにはくすぐられるものがあり、一軒の価値アリ。それは現実世界が非現実的だからかもしれない。「2007年」のロンドンを感じさせるものがほとんどなくて、だからと言っていつ頃だとかは曖昧な映画として独立した世界を作っている。だから「現実世界」が良かっただけに幻想にはそれを超える驚きが欲しかった。

役者ではクリストファー・プラマー*2トム・ウェイツの子どもっぽいやり取りを観れたことが嬉しいし、アントンを演じたアンドリュー・ガーフィールドも欲望が取り巻く幻視世界にデリケートな部分をもたらしていた。*3娘役のリリー・コールも好きな顔じゃないけどいちいちエロいし。

というわけだけど、テリー・ギリアムには次回作を何の障害もなく無事に乗り越えて欲しい。そうしたら紆余曲折も何でもなかったかのように良いものを見せてくれる気がする。で、エンドロール後のあれは何を意味しているのか。映画で描かれる幻想と現実、そして観客側の現実の境界線を無くなるってことかな。これも想像力次第なのだろうけど、ギリアムに遊ばれた気がする。

*1:個人的な好みだけど、3人とも好きな役者ではない。

*2:「ドラグネット」以来大好き。親が観てたから、ダン・エイクエイド達のコメディで育ってるんだよ。今じゃいかめしくなったトム・ハンクスも断然この頃が良い。クリストファー・プラマーのコメディセンスも良い。

*3:彼は私が全く持って良いと思えない作品「Boy A」のなかで、唯一評価できる存在だったと思う