あれから10日経って考えること。

地震があってから、かれこれ10日が経ちました。あの日、外出先にいた私は、震源地が東北だと知ったのも、津波に襲われたことを知ったのも、地震発生から数時間後でした。避難するシティバンクの社員でごった返す天王洲アイルで何とかタクシーを捕まえて、本社に戻ったものの、交通機関がストップしたために自宅に帰ることはできず、会社に泊まることを余儀なくされました。食堂で、おむすびが振る舞われたので食べて、津波の映像を見たときは、何も考えることが出来なかったのを覚えています。米粒が喉を通ったかどうかも、よく分からないまま食堂を後にして、23時まで溜まっていた雑務を処理していました。かなり親との連絡も取りづらい状況が続いていたけれど、なんとか声を聞くことが出来た。何故かその後、頭が振り切れた人たちのどんちゃん騒ぎに付き合わされることになる。今はこうしている場合ではないなと、眠いフリをして応接間で寝ていた何人かの女性社員に混ぜて寝かせて貰いました。私が一番下っ端だけど、床で寝るポジションは全員で争奪戦。私に寝かせてくれれば丸く収まるものの、誰も譲らず、結局じゃんけんで私が勝ってしまいソファーで寝ました。翌日の東京駅は、大騒ぎかと思ったけれど、12時半には電車もかなりすいていた。東京から地元まで本当なら1時間で着くのだけど、3時間かかってようやく帰宅。母親と一緒にテレビを見ると、やっとどれだけ状況が悪いものなのか理解しました。心が恐怖でいっぱいになり、とても気分が悪くなりました。集落が一つなくなってしまったり、行きたいと思っていた気仙沼が地獄のような炎に包まれていたり。絶望感で埋め尽くされるとはこういうことを言うのか。親も、友だちも、恋人も無事だったけれど、恋人の家族は被災地に住んでいたうえに、福島だったので後々原発の避難区域に指定されてしまい、大変だった。狼狽する恋人に何もしてやれないし、なんて言葉を掛ければいいかも分からない。私の23年間の人生で得た経験は、頭をフル回転したって、肝心な時に大切な人を元気づける言葉を引き出せるものではなかった。結果、かなりすれ違ってしまったけれど、時間がなんとか修復してくれました。ご家族も、今は福島県外に避難して無事らしい。本当に良かった。

私を何よりも落ち込ませたのは、災害に便乗した差別とか、やれ不謹慎だと叫ぶ悪意の塊だとか、剥き出しの欲望で買占めをする輩だとかそういったもので、それには「思いやり」に溢れたACの広告ですら、太刀打ちできなかった。でも、同時に世界中から励ましや応援、物資、義援金などが来ていたり、ネットでも本当に勉強になることが多くなったし、善意も沢山あった。そこで、被災地の人たちに私が出来ることは募金ぐらいで、安月給から数万円募金しました。でも、それがいつ形になって届くのか。募金をしただけで、非力な自分から遠ざかることが出来たと安心してはいないか。そういう歯がゆさも残ります。地震もまだ続いているし、原発の現場で命懸けてる人がいる。その人たちが命を懸けて守ってくれている「今日」を粗末なものにしていないか。そんでもって、私が守りたがっている日常ってなんなんだ。地震で、津波で亡くなった人が生きれなかった「今日」を、私はドブに捨ててないか。マスコミをマスゴミと批判して、もっともらしいことを言って、満足していないか。あの日から、自分に対して問うことも、戒めることも沢山増えました。同じような人が自分以外にも沢山いると思います。直接的に役立つことをすることは本当に難しい。それに、私には私なりに守らなくてはいけない日常がある。でも、今は国民全員が沈みかかってる船に乗ってるもんだと考えて、私の仕事なり何なりが、その船を浮上させる小さなエネルギーになるように、頑張りたいと思います。物資は、神奈川県が民間からの救援物資の輸送スキームを発表してくれるので、行動できる時にしたいと思ってます。明日も頑張るぞ。